転校生が教室に入って来るや、クラスの中に張りつめていた高揚感は、音もなくしぼんでしまった。教壇に立った彼女の外見が、あまりにもえなかったからである。
 ほっそりとした顔にはハリがなく、頬骨ほおぼねが出ていて、唇も薄い。肩に乗っている黒髪は、振り乱しているというほどでもないが、といって、つややかに整えられているというわけでもない。身体からだつきは痩せ形で頼りなく、全身が青白く見える。
 見ようによっては神秘的だと言えなくもないが、誰もが心かれるような、澄んだ輝きを思わせるには無理があった。
那須多なすだ弓絵ゆみえと言います。よろしくお願いします」
 味気のない声で彼女は挨拶した。可もなく不可もなく、といった感じの、ちょうどいい大きさの声で、取り立てて特徴のあるものでもなかった。
 わずかに残されていた希望もはかなく立ち消え、室内には、後味の悪い白けた空気が漂った。
「那須多の席はそこだ。みんな、よろしく頼む」
 教師に指示され、那須多弓絵は、窓側の最後列に向かって歩き出した。席にたどり着くまでの間に、通り道の両側に座っている女の子が微笑ほほえみかけたが、弓絵の表情はほとんど変わらなかった。ただ、ちょん、と小さなお辞儀を返しただけであった。
 休み時間になって、彼女の周りには、何人かの女子が集まってきた。比較的大人しいグループの生徒たちであった。彼女は二言三言しゃべり、二、三度小さく会釈えしゃくをした。
 会話はいかにもたどたどしかった。その様子を隣の席で見ていた古城こじょう利一りいちは、那須多弓絵の前途について想像し、ため息をついた。
 おそらく、彼女は一人になるだろう。それは火を見るよりも明らかであるように思えた。
 転校生がクラスになじめず一人ぼっちでいるという状況に、彼はこころ苦しさを抱いた。加えて、クラスの中で一人になることが、女子にとっていかに恐ろしいことであるかを、中学の頃、幼なじみから聞かされていたから、余計に彼女のことが心配になった。
 はたして那須多弓絵は、とくに親しい友人もいない生徒として定着した。華やかでうるさいグループの連中が、かげであることないことを言っていたが、当の弓絵本人は一向に意に介していなかった。
 彼女は自分の席でいつも本を読んでいた。利一が観察すると、それはときに単行本であり、ときに文庫本であった。本に詳しくない彼は、彼女がどんなものを読んでいるのかはわからなかった。しかし彼女が手にしている本は毎日違っていた。
「ねえ、どんな本読んでるの?」
 あるとき、利一は彼女に尋ねてみた。が、弓絵は本に向かったまま黙っている。
「那須多さん?」
 と、名前を呼んでみたが、やはり反応はない。ここでやめてしまうのも中途半端だったので、利一は思い切って腕を伸ばした。
 とんとん、と彼女の肩を指でつつく。すると、彼女は急に身体を震わせてこちらを向いた。いささかオーバーに見えなくもない反応だった。
「それ、何の本?」
 彼は尋ねた。彼女は少しの間まばたきをし、パクパクと口を動かしていたが、やがて、つっかえながら、
「ド、ドストエフ、スキーの、『二重人格』……」
 と、そのタイトルを言った。
「本が好きなんだ」
 利一は笑いながら、続けてそう水を向けたが、彼女は小さくうなずいただけで、また視線を戻してしまった。彼は、階段を踏み外したようなすわりの悪さを覚えた。これは、彼女と会話をするのは一苦労だと思った。
 こんな調子であるから、男女を問わず、彼女の周囲に人はいなかった。
「自分がどういう存在なのか、わきまえてるんだよ」
 あるとき、彼女を何かと煙たがっている女子たちが、人目をはばかることなく言った。
 弓絵は相変わらず本を読んでいる。
 利一は内心気分が悪かったが、それでも、彼女たちにくぎを刺すのは気が引けた。彼のクラスの中での立ち位置は、さほど影響力のあるものではなかった。
 もっとも、彼は端正な目鼻立ちをしていて、清潔感のある雰囲気を持っていたから、女子生徒たちの間にはひそかに人気がある。が、そうであるだけに、彼が何か言おうものなら、彼女たちは弓絵に対して、より陰湿な敵意を向けるのではないかという懸念けねんがあった。似たようなことは、彼は中学のときに体験済みであった。
 利一がそっと弓絵の様子を盗み見ると、彼女はまったく一心不乱に、活字に没頭していた。
(これは、本当に聞こえていないのかもしれない……)
 ふと彼はそう思った。すると不思議なことに、この冴えない女子生徒から、得体のしれない迫力が伝わってきた。その姿は他人どころか、外に広がる世界をも拒絶する、そういう力強さを秘めているように、彼には思えたのである。
 次第に彼は、那須多弓絵という少女に夢中になっていった。彼女の姿は、派手なきらめきこそ感じられないが、身体の芯からにじみ出る淡い光に包まれていた。音もなく吹き上がる青白い気炎が、存在の表層に揺れていた。女の子がこんな風に見えたのは、彼にとって初めてのことであった。

 古城利一が告白したのは、弓絵が転校してきてから一か月ほどがった、ある日の放課後であった。
 その日は一週間後に迫った体育祭の打ち合わせで、委員の利一は学校に残っていた。時刻は五時近くになっていた。
 鞄を取りに教室へ戻り、扉を開けようとしたところで、彼はピタリと動きを止めた。誰もいない教室で、弓絵が一人、本を読んでいた。
 彼の意識に何かが起こった。彼の頭脳はこの状況を把握するやいなや、すさまじい速度で何かの計算を始めた。頭の中で彼の分身と彼女の分身とが会話していた。彼は笑い、彼女の方も照れくさそうに笑った。ほっとするような優しい笑顔がそこにあった。
 彼はもう一度、確かめるようにあたりを見回してから、少しずつ腕に力を入れはじめた。教室の扉を、慎重に、音を立てないように開ける。引き戸が行き止まりまで動いて、ガタンと低い音がしたとき、彼は勝負の幕が上がったことを意識した。