電灯の消えた教室には、夕焼けが差し込んできていた。弓絵は黙々と読書にふけっている。その表情はいつになく紅潮しているように見える。それは、暖色の日差しに照らされているから、というわけでもないようだった。
 物語はいま、最終盤を迎えている。読み手である弓絵自身もそのことを知っている。キラキラとした大団円だいだんえんのイメージが、ゆったりとしたメロディのように頭の中を流れて行く。同時に、もうすぐこの温もりが終わってしまうという、りょうとした感じが、胸の奥に揺らめいた。
 主人公の少年とヒロインの少女は、決意を胸に、教会を出る。振り返って仰ぎ見ると、礼拝堂の鐘が夕陽ゆうひを浴びて光っている。群青に深紅が溶け入った空の下、二人は初めて出会ったときに聞いた、鐘楼しょうろうの音色を思い出す。神々しい響きだけが、若き二人の門出を、優しく包み込んでいた。――
 弓絵は顔を上げた。視線は遠くを見つめていた。
 物語の豊かな余韻よいんが、後から後から押し寄せてくる。窓の外には温かい街並みが広がっている。沈んでゆく太陽が見える。
 鮮やかなオレンジ色に染まった世界を感じながら、彼女は鐘の音色にかれていた。
「那須多……?」
 不意ふいに声がした。
 弓絵は震えた。
 一人の少年が視界に入り込んできた。
 教会の影はまたたく間に消え去り、彼女の世界は呑み込まれるように溶けていった。現実が、全身から彼女の中に侵入し始めた。
「あ、ごめん……本、読んでたの?」
 少年は努めて優しく、穏やかな口調で言った。
 が、弓絵は、彼の言葉をほとんど聞き取れなかった。見られた、という羞恥しゅうちが身体中にあふれ、それはパニックを引き起こした。
 彼女はあわただしく荷物をまとめ始めた。
 すぐにでもこの場から立ち去らなければいけない。
 そういう考えが、強迫観念のように彼女を突き動かした。
 しかし、彼女が席を立って歩き出そうとした瞬間、その腕を少年がつかんでいた。
「待ってよ!」
 二人の顔が向かい合う形になった。彼女はようやく、少年の不安に満ちた表情に気が付いた。同時に、彼がいつも自分の隣に座っている古城利一だということにも、思いが至った。
「逃げないでよ」
 と彼は言った。心なしかその声は震え、息が上がっているように見えた。
 弓絵は何も言えず、黙って相手の目を見ていた。彼女はこれから自分に起ころうとしている事を想像した。すると、身体の中の最深部にうずくまっていた感覚が、恐怖という形で、意識の表層にせり上がってきた。

「思ったんだ……。那須多、おれ、お前のこと……、その……、気になってる」
 利一は彼女の腕をとったまま、ポツポツと言った。一語一語が強調され、妙なアクセントになっていた。
「だから、その……、つまり……」
 あとは、最後の言葉を言えばよかった。
 その決心は、とうにつけたはずだった。
 が、跳躍ちょうやくを目前に、彼はもう一度、自らを奮い立たせなければならなかった。
「おれと、付き――」
 言葉を言い切る、その間際に、一拍の躊躇ちゅうちょがあった。
 その隙をついて、彼の告白を押しとどめたのは、彼女の悲痛な声であった。
「やめて!」
 利一はひるんだ。慌てて、つかんでいた彼女の腕を離した。
 彼女はうつむいたまま言った。
「あの……私、その……何か、気にさわること、しましたか……?」
「え?」
 利一は困惑した。彼女が何を言おうとしているのか、わからなかった。
 弓絵は続けた。
「だって、冗談なんでしょう……? からかって、いるんでしょう、私を……」
「……どういう、こと?」
「しらばっくれないでよ!」
 利一は思わずった。そして、唇をかみしめて涙を流し始めた彼女を見て、動けなくなってしまった。
「なんで? なんでよ?」
「何で、って……」
 彼は懸命に口を動かそうとする。だが、発しようとした言葉は彼女の嗚咽おえつにかき消されてゆく。
「どうして、あなた、みたいな、人が、私に……、付き、合って……なんて、言うのよ……」
「どうしてって言われても――」
「だってあり得ないじゃない!」
 再び彼女が叫んだ。頬を濡らしていた涙が、ぽっと床にこぼれ落ちた。その姿に、利一は言葉をあきらめた。ただ、待っているしかないように思えた。
「私のことなんか放っといてよ!」
 感情をぶつけるや、弓絵は駆け出した。
「待って!」
 利一は叫んだ。が、今度は彼女を止められなかった。
 彼女を追い、利一は教室を飛び出した。悲しみに満ちた彼女の表情が、その目に焼き付いていた。

 女子トイレの前で利一が弓絵のことを待ち始めてから、すでに三〇分が経っていた。
「ねえ――」
 中から声がした。
「どうしてそこにいるの?」
「まだ返事をもらってない」
 彼はわざと抑揚よくようをつけずに言った。
「だから言ってるじゃない。からかわないで、って」
「……なぜ冗談だと思う?」
「あり得ないから」
「……何があり得ない?」
「古城くんみたいなかっこいい人が、私みたいな人を好きになるなんて」
 彼はため息をついた。廊下の壁に身体を預け、背中に向かって語り掛ける。
「おれがかっこいいかどうかは、おれにはわからん。……それで、どうして君を好きになっちゃいけないんだ」
 中から聞こえていた声が途切れ、鼻をすする音がした。
 この壁一枚を隔てた向こう側に、彼女がいるに違いなかった。
 彼は、無意識のうちに、後ろに回した手で、冷たい壁を撫でていた。
「だって……私みたいにブスで、根暗ねくらで、陰湿で、汚れていて、人としゃべれなくて、本ばっか読んでて、面白くもない人なんて……。古城くんには似合わないよ……」
 やがて絞り出された彼女の言葉を、彼はじっと、自分の胸に刻んでいた。その言葉には、彼女のこれまでの人生が、すべて託されているように感じられた。
「まず――」
 十分な間を取ってから、彼はおもむろに口を開いた。
「君は、少なくともおれの見る限り、そんなにブスじゃないし、根暗でもない。陰湿かどうかは……、まだよく知らないけど、おれは凄まじく陰湿な女を知ってるから、おそらく君は陰湿ではない」
 頭の中に、チラリと、幼なじみの顔が浮かんだ。
「それから、君の本を読んでいるときの姿は、とてもきれいで美しい。馬鹿みたいに携帯いじってる連中よりよっぽどマシだ」
 彼は語気を強めた。もう一息だと思った。
「さっき、おれ見ちゃったんだよ。君の顔、――一冊の本を読み終わるときの、君の顔を……」
 彼は言った。空間がかすかに震えたように感じられた。
「初めて見たんだ。ああ、君はこんな顔をするんだ、って……。とても幸せそうな顔をしてた……。最高に、かわいかった」
 気が付けば、彼女が隣に立っていた。
 もう一度二人は顔を合わせた。
「おれは君のことが好きだ……。那須多、おれを、君の彼氏にしてくれないか」
 弓絵の瞳はまたうるんできた。利一の顔を見つめながら彼女は何度も鼻をすすった。そして、ゆっくりと口を開いた。
「あなたは、優しすぎる……」
 また涙があふれて来た。今度は言葉を止めなかった。
「こちらこそ、私をあなたの彼女にしてください」
 その余韻を味わうような間があった。彼は答えた。
「もちろん」
 そうして彼女の頭を、優しく腕で抱きとめた。彼女は、彼の二の腕のワイシャツに顔を押し付け、少し泣いた。
 二つのシルエットはしばし重なり、穏やかな時間がゆったりと、二人の姿を包み込んだ。