古城利一が那須多弓絵と付き合っているということは、クラスには知られなかった。
 教室の中にあって、二人はまったく、互いに関心を持っていないかのように振る舞っていた。弓絵の方は変わらないが、利一の方は意識的に、ほかの男子の席に立って、そこでしゃべることが多くなった。
 彼はなるべく弓絵との交際を隠しておきたかった。このあたり、彼は不思議なまでに慎重であった。
 二人は学校の外で待ち合わせ、一緒に帰った。
 正門を出て、駅とは違った方向に歩いてゆくと、閑静かんせいな団地がある。そこに設けられた公園が、二人の落ち合う場所であった。
 会話は大抵、本の話題から始まった。
「今日は何を読んでたの?」
「えっと……『ジキル博士とハイド氏』」
「――あ、それ知ってる! 二重人格の話でしょ」
 彼女が読む本は毎日変わるので、このやり取りは毎日変わる。そのほとんどは彼の知らない本なのだが、たまにこうして、有名な作品に当たるときもある。そんなとき、彼はとてもうれしくなった。
「名前は聞いたことあるんだけどなあ……。実際は、どんな話なの?」
「えっと……その、普段は温厚なジキル博士っていう人が、クスリを飲んで、ハイドっていう、この世の悪を塗り固めたような人になって……、それで、人を襲うようになるの」
「へー、クスリで変身するんだ」
「うん、そうなの。ちょっと、意外だよね」
 うふふ、と彼女が楽しそうな顔をする。やっぱり、本のことを話しているときが一番なのだ。
 色々なことをしゃべりながら、二人はまっすぐ駅には向かわず、ぐるりと、市内を散歩するようにして帰る。電車通学の生徒が大半であるなかで、二人は偶然にも徒歩通学だった。つまり、弓絵はまさに、利一の住む街に越して来たのである。
 利一は自分が生まれ育った街を、弓絵に紹介して回った。図書館があり、美術館があり、公園があり、商店街があり、並木道があった。そのどれにも弓絵は目を輝かせた。子どものようにはしゃぐということはなかったが、時折見せるはにかんだ表情と、口元からのぞく白い歯は、彼とのデートを満喫している証拠だった。教室で一人、活字に集中しているときの彼女とは別人であった。
 ときに、利一の中では次第に、一つの懸念が頭をもたげてきた。街のある一区画が、その原因であった。
 そこは、彼の中学時代の同級生たちが、夕方から夜まで集まって騒いでいる空間だった。一学期から夏休みにかけて、彼もまた、その区画の中にある一軒のダーツバーに出入りしていた。今は足が遠のいているとはいえ、利一は内心、もう一度彼らと時間を共有してみたくもあった。
 しかし、自分がそのような場所で騒いでいるということが知れたら、弓絵に軽蔑されるかもしれない。――それがくだんの心配であった。
 そんな折であった。
 彼が教室の自分の席でまどろんでいると、同じ中学の伊澤いざわが声を掛けてきた。
「お前さ、今日、久しぶりに行かないか?」
 当然、バーのことを意味していた。利一が顔を上げると伊澤はまくし立てた。
「なんかさ、先輩が、かわいい子、連れて来るらしいんだよ」
「ん……? ああ、そう」
「あ、そう、って。お前、頼むよ。お前、見た目良いじゃん? 夏休みン時みたいにさ――」
 彼の言葉がそこまでいったとき、利一は慌てて身体を起こした。隣に自分の彼女がいることを思い出したのである。様子をうかがうと、弓絵はいつもと変わらず、黙々と本を読みふけっていた。利一はひとまず安心し、それからおもむろに席を立って、伊澤を廊下の方へ誘った。恋人に聞かれるには、あまり気分の良い話ではなかった。

「あの……」
 弓絵が物静かな声で話を切り出したのは、帰り道のことだった。
「今日、どこかに行くの……?」
 利一は縮み上がった。会話を聞かれていたのは予想外だった。というのは、彼女はかつて、彼に対して、自分が本を読んでいるときの集中力は鬼のようだ、と語っていたからである。
「読んでるって感じじゃなくて……。その、絵が浮かんで、音が聞こえて、においまでしてくるの……。何ていうか、本当に、物語の中に入ってしまったみたい、なの……。だから、外の音は全然聞こえないの」
 そう彼女は説明した。 
「へー、そりゃ……」
 と、彼は何かうまい言葉を探した。
「時空を飛び越えちゃってるね」
 何だかこそばゆい物言いだったが、意外にも彼女は、その言葉を気に入ったらしかった。
 ――ともかく、そういうわけで、弓絵が本を読んでいるときには、雑音は聞こえていないのだと彼は思っていた。だから、彼女が昼の会話を思い出し、こうして尋ねてきたことは、彼にとっては不意打ちであった。
「ああ、まあ、その……。中学の同窓会、みたいなもんだよ」
 利一の答え方は釈然としないものだったが、弓絵はあまり気にかけていないようだった。「そう」と言ったあと、「同窓会か」とつぶやいた。
「そういえば、那須多はさ、中学の頃の知り合いとか、まだ連絡とってるの?」
 彼は彼女の言葉尻を捉えて、話題をらそうとした。集まりのことはともかく、「かわいい女の子」だとか、「夏休みのこと」だとかに話が及ぶことは避けたかった。が、この切り返しは、話題の選択として思わしくなかった。
「私、その……、友達とか、あまりいなくて……」
 まずった、と彼は思った。雰囲気が重たくなった。
 とはいえ、幸か不幸か会話が途切れ、話題を別なものに変えやすい空気にはなった。彼のフォローは巧みで、結果的に、伊澤の件に話が及ぶことはなかった。

(ひょっとすると、女の子の話の方は、聞こえていなかったのかもしれない……)
 駅で彼女と別れた後、彼はそう考えて、胸をなでおろすことにした。そして携帯を取り出し、伊澤の番号を探して、そこにかけた。